玉ノ井稲荷 神向山 東清寺

東清寺について

東清寺縁起

所在
東京都墨田区墨田三丁目10番2号
名称
曹洞宗 神向山 東清寺 (通称 玉ノ井稲荷)
本尊
十一面観世音菩薩(他に豊川稲荷分霊、身代わり不動尊、
釈迦如来、聖観世音菩薩、弘法大師、日蓮聖人、等を合祀)
創立
寛保元年二月 山梨県三富村に創立
移転
昭和二年 現在地に正式移転
開山
東清海本大和尚(生没年不詳)
英山信雄大和尚(中興開山、本寺 山梨県身延町方外院二十世)
開基
深山白龍大和尚(玉井閣発願者、寺島法泉寺十九世)

当寺の由来は大正時代に始まる。大正のはじめ頃、玉ノ井は東京府南葛飾郡寺島村に属し、当時はまだ農村地帯であり、付近は至る所田んぼ道ばかりで、広い道が一本も無かった。

そこで、「これでは当地の発展は望めない」として、地元の有志が相談して、大正天皇御大典記念ということで向島土手通りから水戸街道へ通ずる道路を作ることになり、関係の地主が土地を出しあって、大正二年ごろ、白鬚橋から北玉ノ井までの道路工事を始めた。

ところがこの工事にあたり、先祖元来の土地に鍬入れをして、何かたたりがあっては困るということで、着工前に関係者が寺島村法泉寺十九世中川白龍和尚に懇願して、豊川稲荷の分霊を勧請して小さな祠を作り、工事の無事を懇願したのが現在の玉ノ井稲荷の起こりである。

この道路は大正四年頃完成し、「大正街道」と名づけられ(現在は「大正通り」と「いろは通り」になっている)、その完成記念碑が当寺境内に現存している。

その後、当地玉ノ井は関東大震災後に遊郭が出来るなど急激に発展してきたので、大正十三年に地元有志の懇願により、寺島法泉寺に出入りしていた武田信雄和尚(当時、山梨県方外院二十世)が玉ノ井稲荷に「玉井閣」という布教所を設けて信者の教導にあたり、更に昭和二年には、山梨県三富村に在りし東清寺を現在地に移転した。ちなみに当寺は寛保元年二月に創立し、開山は東清海本大和尚である。

昭和五年には、山梨県下部町(現、身延町)所在の瀬戸観音方外院に合祀されていた脇本尊の十一面 観世音菩薩を勧請し、これを東清寺の本尊とした。

従来の稲荷様は当寺の 鎮守として合祀する事になった。このため、参拝者は日増しに多くなり、毎月二日、二十日の縁日には、向島で一番の人出でにぎわった。昭和二十年三月十日の大空襲ですべての建物を消失してしまった為、戦後はとりあえず仮堂を建て、従前どおり観音様と稲荷様をお祀りしていた。

昭和二十九年に向島広小路にあった「身代り不動尊」を当寺へ合祀することになり、その不動様を奉安してあったお堂も当寺へ移築した。

この移築した建物を当寺の本堂とし、これに観音様、稲荷様、不動様を合祀していた。(この不動尊は、故田村七蔵氏が生前執心に信仰していたもので、同氏がかつて失明していた折、この不動様のお陰で目が見えるようになったところから「身代り不動尊」と称されていたもので、元々は成田山のお不動様を勧請したものである。)

このように一ヶ寺に観音様、稲荷様、不動様と全部合祀しているのは非常に珍しく、向島地区の内外に問わず、参詣の信者が多い。又、永井荷風の小説「濹東綺譚」に出てくる寺としても有名で、文学散歩で来寺される方も多い。

時代は平成になり、当寺三世武田信秀和尚は、本堂の老朽化と真言宗式の造りである為の儀式の不便さを指摘し、本堂の再建を発願したが、平成十六年末、病気のため示寂した。 本葬終了後、本堂の雨漏りがさらにひどくなり、当寺四世は本堂再建を決断し、平成十九年三月、本堂他諸堂すべてを完成させた。

新本堂は「集佛殿」と命名されたが、この真意は、すべての佛様が集まる場所という意味のほかに、参詣された方々が再びここに相集うという意味が込められている。

平成二十六年五月には、御本尊 十一面観世音菩薩を新しく造立し佛点眼(開眼)され、集佛殿の面目を新たにしました。

バリアフリー 施設

玄関ホール

客殿

エレベータ

集佛殿(本堂)椅子席

東清寺への交通案内

交通案内
  • 伊勢崎線東向島駅より徒歩8分
  • 伊勢崎線鐘ヶ淵駅より徒歩6分
  • 京成鉄道八広駅より徒歩9分
東清寺

〒131-0031
東京都墨田区墨田3-10-2

お問い合わせフォーム